2011年3月20日日曜日
戦闘美少女の精神分析 読了
戦闘美少女の精神分析 読了
斉藤環/著 筑摩書房/刊 20060510第1刷800円 ちくま文庫
表紙がエヴァンゲリオンの綾波レイのクリスタルフィギュアであり、「戦闘美少女」と云うからにはアニメの美少女キャラクターをかなりディープに解説しているのだろうと勘違いして手に取ると、途中で投げ出す危険性があります。
2006年刊行ちくま文庫以前に太田出版で2000年に刊行されており、あとがきを読むと「本書のテーマが構想されたのは1994年の9月」とあるから、かなり時代を感じさせる内容となってしまっています。もし「戦闘美少女」なる存在と「おたくという共同体」(p19)が存在すると仮定するのならば、2011年現在においても本質的に変化は無いとも考えられます。
一読して思ったのは、とりとめの無い話を良くぞ纏め上げたなぁ、と云う事です。そして著者斉藤環は現役の精神医学者であり、正統な精神病理学者ですから、その分析についてどうこう云うだけの知識を拙者は持ち合わせておりません。ただ、初歩の初歩的発達心理学概論や教育心理学概論を学んだ素人考えとして、心理学は未だ発展途上の学問で、現在目に見える現象にレッテルを貼り分類するのが主な研究であり、後は経験則的にこうなんじゃないかなぁ、と推測をする程度のもので、サンプルをいかに多く収集して仮説を立て続けて行くしかない学問と思っています。そんな意味で日本のサブカルチャーとしての「オタク」を、正統的西洋心理学を当て嵌めて説明しようとしても無理が生じるのではないかと思いました。
とりとめの無い話だと思ったので、感想文を書くのを止めておこう(と云うか書けない)としていました。2011年1月15日土曜日朝日新聞13版36面「文化変調 第6部 ガラパゴスの先へ 独自進化 胸を張れ ⑥識者に聞く」で本書の英訳者・日本文学者「キース・ビンセント」のインタビュー記事「『架空に寛容』オタク生む」を読んでやっと本書の内容が拙者の中で纏まりました。
「‐前略‐斎藤環さんの指摘なのですが、例えば日本のオタクはマンガの裸を見て、時に興奮するけれど、こうしたことはアメリカでは考えにくい」(上記朝日新聞引用)
では「マンガの裸を見て、時に興奮する」“オタク”とはどのような存在か、本書で定義されているのですが、その捉え方に問題があるのではないかと思われます。
マスメディアに登場した1983年『漫画ブリッコ』誌上で中森明夫がエッセイの中で書いてから、と云う定番から紐解いています。マスコミに登場したのは『漫画ブリッコ』が初めてなのはまず間違いないと思われますが、世に浸透したのは、多くの人々の共感を得たからでしょう。マンガ・アニメ・マニアの仲間内の中でも特異に存在していた全国の同時多発的人物に「おたく」云うレッテルがピタリと合致したからこそ巷間に流布されていったはずです。
「この言葉は一種の差別性をはらみつつ、」(p22)ではなく、明らかに差別語です。“あいつ”とは違うんだ、と云う意味を込めて「あいつ“おたく”だぜ」と使われたいたはずです。
この差別の危険性に気がついた『漫画ブリッコ』の編集者大塚英志による論争と、同じく危険性に気がつき大塚英志とは別なアプローチで「おたく」の再定義を行ったのが岡田“オタキング”斗司夫であり、著者斎藤環は岡田斗司夫の「おたく」定義を採用しています。しかし、岡田斗司夫の述べている「おたく」は火消しのために差別性を上書きするための、「おたく」とはかくあるべしと云う理想像であり、いわゆる「数寄者」の現代版を唱えたと思われます。
岡田斗司夫は著書「東大オタク学講座」(講談社/刊 19970926第1刷)の中で
「もともとオタクとはある特定の人種、アニメやまんが、ゲームなどにハマっていて紙袋下げているいる奴を指す言葉ではありません。そういった人々がバックグラウンドとして持っている文化の総体が『オタク』なわけです。」(p6)
逆説的に「おたく」の定義を述べてしまっています。
ここで勘違いしないでいただきたいのは、「おたく」と云う言葉を差別語だとしたいわけではありません。今や「オタク」として世界中に流布した専門的マニアとしての言葉の意味を逆転させる事は不可能であります。不可能だからこそ、あえて今更その初源においてなぜ差別されたのかを考えたいのです。
さて、その岡田斗司夫は2008年には「オタクはすでに死んでいる」と云う著書を刊行します。2008年5月4日日曜日朝日新聞12版12面読書の書評ページ「著者に会いたい」にインタビューが掲載されています。以下引用
「きっかけは最近のオタクの若者に抱く違和感だという。『新製品の発売を待つだけで楽に快楽を得ようとし、自分の好きなジャンルから少しでも外れると関心がない。消費するばかりの存在。かつてオタクが共有した価値観は失われたのです』」
この「消費するばかりの存在」これこそが正に「おたく」の本質を言い表していると拙者は考えます。
「おたく」は情報(=虚構)の再生産をしません。
しかし、「戦闘美少女の精神分析」の中における「おたく」は二次創作をはじめコスプレやある種の活動を行ます。アニメやマンガ作品にインスピレーションを得て、パロディかもしれませんが、自らが「創作者」たらんとする存在を「おたく」としました。そのある種究極の姿が「ヘンリー・ダーガー」の創作活動だと云うのでしょう。
芸術活動が、ある種の情報発信であり、経済活動の中で糧を得るために作品を切り売りする行為を「芸術」とするならば「ヘンリー・ダーガー」の行為は「芸術」ではありません。しかし結果として「芸術作品」足り得る“創造的作品”が残ったために芸術と見なされたのであり、その行為は「おたく」ではなく「クリエーター」として評すべき行為ではないでしょうか。
例えば司馬遼太郎の「燃えよ剣」の中にこんな一説が出てきます。
「閣下はアルテイスト(芸術家)か」
と、この仏国陸軍の下士官はちょっと妙な顔をしていった。
「あるていすと、とは何だ」
と、歳三はきいた。歩兵頭は、「歌よみ、絵師のことだと思います」といった。もっともあるていすとには、「名人」とか「奇妙な人」という意味もある。歳三は、その奇妙なひとのほうかもしれなかった。
この文章の前段では、土方歳三は戦場で俳句を捻っています。さらに本文中度々出てくる、戦場を土方自身の作品と評したくなるような、こだわりを主人公にとらせています。
「アルテイスト」がもし「奇妙な人」であるならば、正に自己完結型「ヘンリー・ダーガー」はそう(アーティストと)評されて良い人ではないでしょうか。
「アーティスト(アルテイスト)」とか「クリエーター」と云った作品を通してある種の創作活動をする同好の士の輪の中に、ポツネンと情報の「消費」しかしない存在がいたとしたら、輪の中から浮かざるえません。その浮いた存在に付けられたレッテルが「おたく」ではないでしょうか。
「おたく」とは虚構に興奮できる存在、だとしましょう。
「おたくとは近代的なメディア環境が、わが国の思春期心性と相互作用することによって成立した、奇妙で独特の共同体だ。」(p19)
「マニアの一部がメディア環境の変化に対応して一種の『適応放散』を遂げた形が、現在のおたくなのではないかと考えている。」(p34)
と、あります。鋭い指摘だと思いますが、果たしてそれだけでしょうか。
例えば『サンデーGX』2011年4月号「浜田ブリトニーの漫画でわかる萌えビジネス」(p313)を挙げます。日本の文化の中で二次元や虚構に性的興奮を覚える人々はいたのではないか、と考えさせられる内容になっています。しかし、マンガ作品中の解釈をそのまま鵜呑みにする事は危険です。時代も違いますし、論拠がまるでありません。現代的視点から過去を面白おかしく解釈しているだけなのかもしれません。
ここまで読んでいただければお解りの通り、拙者は拙者の独自のサングラスをかけており、偏向グラス越しに「戦闘美少女の精神分析」をいくら読み解こうと頑張っても、始まりから向いている方向が違うので、理解できるわけがありません。しかも後だしジャンケンと同じで未来から過去を見ているのでこの十年にわたる変化を踏まえてしか読むことができませんでした。あくまで「戦闘美少女の精神分析」を読んで触発された拙者の意見を述べているにすぎ無い事を、ご理解いただきたいと思います。そして拙者がより知識を得ることができれば本書を理解が進む事は間違いありますまい。冒頭の「おたく」の定義だけで、これだけ考えさせる事の出来る本書は一読の価値があると断言できます。
他にも「アニメの伝統や文脈に無知な非おたく作家には、決して良質なアニメ作品が作れないないだろう。」(p220)とか「日本の漫画家やアニメーターの評価においては、絵のテクニックが最優先事項ではないということ。」(p283)等興味深い指摘が多いので、機会があればいつか騙りたいと思います。
内容(「BOOK」データベースより):ナウシカ、セーラームーン、綾波レイ…日本の漫画・アニメには「戦う少女」のイメージが溢れている。筋肉質なアマゾネス系女戦士とは全く異なり、「トラウマ」を持たない可憐で無垢な戦闘美少女。この特殊な存在は、果たして日本文化のみに見られる現象なのか。彼女たち「ファリック・ガールズ」の特性と、それを愛好する「おたく」の心理的特性を、セクシュアリティの視角から徹底的に分析する。
内容(「MARC」データベースより):ナウシカ、セーラームーン、綾波レイ…。日本の漫画、アニメ空間には「戦う少女」のイメージが溢れている。「トラウマ」をもたない可憐で無垢な戦闘美少女の特性と、「おたく」の心的機制を、セクシュアリティの視覚から分析。 --このテキストは、絶版本またはこのタイトルには設定されていない版型に関連付けられています。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より) 斎藤 環:1961年生まれ。岩手県出身。筑波大学医学部研究科博士課程修了。医学博士。現職は、爽風会佐々木病院診療部長。専門は思春期・青年期の精神病理学、病跡学、ラカンの精神分析、「ひきこもり」問題の治療・支援ならびに啓蒙活動。漫画・映画等のサブカルチャー愛好家としても知られる(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)(アマゾンより引用)
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