司馬遼太郎が語る(第四集)CD 聴了
~文章日本語の成立~ 新潮社/刊 20050925発行2000円 57分
「東京オートサロン」の幕張メッセを後にして、アキバで友人(「がちょ~ん」で配布中の「大和咆吼」著者)と飲んだ時のこと、やおら拙者の手相を見出し、オヌシ(普段からこんな口調)“カン”の強い相があるゆえ般若心経を千回も唱えると功徳があるやも知れぬぞ、と言い出しました。
その時拙者の頭に浮かんだのが「 司馬遼太郎が語る(第四集)~文章日本語の成立~」でした。今現在、この「がちょ~ん」もそうですが、我々が普通に使っている文章日本語が成立するには百年かかっている、と云う内容の体験した事や知識の具体例を時代ごとに挙げつつ語っています。
かつての日本人は声を出して文章を読んでいたと。その方が理解しやすい文章だったのでしょう。「ゲート」と云う小説を以前紹介していますが、この中でも異世界へ行った主人公が片言の異世界語を使っているうちに突然言語として理解できるようになった描写がありました。おそらく似たような体験を作者か協力者がしたのでしょう。一定の知識なのか脳内回路なのかが形成させると理解力が格段に向上するのではないかと思います。
「読書百遍、意自から通ず」と云う“ことわざ”なんだか引用なんだかが存在します。古来日本において読書と云えば中国から渡来した漢文の書籍を読むことでした。中学高校の時に漢文の授業がありますが、いくら読み下し訓読みしても外国語は外国語です、そんなりすんなり頭の中にはいるわけがありません。まあ、百回も同じ文章を読み返せば知識の蓄積か回路の生成が成されると云う事ではないかと思われます。そうならば、般若心経に限らず所謂“お経”の類は漢文どころか、元はサンスクリット語であり、それを漢文に翻訳してさらに日本人が理解するには、それこそ百万遍読経して知識の蓄積や外国語の回路を作らなくてはなりますまい。
なるほど般若心経を千回唱えると、案外書いてあることがただ頭で理解するだけではなく、知識として体得することができるやも知れぬ、と思いました。
拙者が友人に、マンガの感想文を2千本書いてるけど、これではダメかね?と聞くと曰く、
功徳が無い。
内容紹介:われわれが日常使う日本語の文章は、どのような経緯でいつごろ成立したのか。漢文読み下し調から脱却し、夏目漱石や正岡子規などの手を経て、現在の文体を確立するまで。──明治維新後の言葉の変遷をたどりながら、文章日本語の成り立ちを語る。(1982年NHKホールにて収録)(裏表紙より引用)
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