司馬遼太郎が語る(第三集) 聴了
~草原からのメッセージ~ 新潮社/刊 20050925発行
先日昼飯に蕎麦をたぐっていると、小学生の男の子を連れた三人家族が座っていました。男の子は暇をしているのか、しきりと「ビョウ、ビョウ」と繰り返していました。私は、嗚呼少年は「もののけ姫」を見てサントラで云うところの28曲目「黄泉の世界」を口にしているのだろう、と考えました。その家族の父親が、何だその“ビョウ、ビョウ”と云うのは?と聞くと、少年に代わって母親が、狂言の犬の鳴き声ですって、と答えました。
“ビョウ ビョウ”と云うのは犬の鳴き声だったのか!
ならば久石譲はシシ神が死を振りまく黄泉の世界の中で、犬神(この場合は“オオカミ”狼=大神の意が妥当ではなかろうか?)の母の死と共に、犬の声をBGMに入れていたと言うのか!
久石凄えぇ。
当然ながら宮崎駿も知っていたのだろう。
犬の鳴き声はワンワンだ、と少年は声を張り上げましたが、確かに狂言ではある種の様式化定型化をする古い演劇スタイルと考えられるますが、犬ではなく狼のマネをしたのだとすると、狼は犬の様に吠えないので、喉を鳴らす現代なら“グルグルグル”とでも表記する唸り声を“ビョウ ビョウ”としたのかもしれません。
子どもに狂言を見せるなんて、なんて教育的な家庭なんだろう、と思いつつ店を出、電車に乗った時、「日本語であそぼう」かもしれない事に気がつきました。閑話休題。
講演会の記録CD「司馬遼太郎が語る(第三集)~草原からのメッセージ~」を聞きました。
話の内容はだいたい「草原の記」や「この国のかたち」等のエッセイに書かれているものがほとんどでした。
文章を完成させるには過程の何処かで音読か黙読かは人によりますが、“読む”行為が必要になります。出身地方や個人の資質でどうしても独特のイントネーションが生じます。日本の学校教育の賜物か、お隣中国が話し言葉は異なれど漢字で共通化することに成功した事がお手本になっているのか、書き文字にするとほぼ意味の伝わる“文章”になります。況や司馬遼太郎は新聞記者であったためか、とても読みやすく解りやすい(誤解されにくい)文章を書きます。
それでもやはり大阪出身のご本人の声を聞くと、文字情報とは違う、関西弁の温かいニュアンスが伝わってきます。「情報」としてならば“ノイズ”でしかないのですが、例えば芸術で写実性なら写真に劣る絵画が今もって描かれ続けているのは、個人のフィルターを通しての“ノイズ”にこそ芸術性を求められるのではないのでしょうか?神林長平がそんな短編書いてました。
死して十数年、博覧強記の司馬遼太郎の“モノ語り”を聞ける幸せを噛締て、司馬遼太郎記念館へ無性に行きたくなりました。
内容紹介:中国東北部から東ヨーロッパへと続く広大なステップを舞台に、栄枯盛衰を繰り広げてきた草原の民──匈奴、スキタイ、モンゴル、韃靼などその時々でさまざまな呼び名を持つこの草原の民と彼らが築いた「遊牧」という文明の意義について語る。(1992年千葉市文化センターにて収録)
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