「小峰城」小話
白河の土産話に城を外すのは難しい。JR白河駅に降り立つとホームから北側にそれは見事に城が見える。そして拙者も含めて良く皆間違えるのだが、小峰城に天守閣は無い。
えェェ!だって見えるぢゃん。
あれは楼であって天守では無いのだ。「三階櫓」である。福島県内で天守閣を持っているのは会津若松だけではないだろうか。ホームから見事に見えるから、直行しようとしても城側出口が無い。南側の唯一の改札口を出てから線路に沿ってぐるりと巡ってからやっと城跡公園にたどり着く。観光客を呼ぶ気が無いのだろう。ただし拙者はJR白河駅で降車したことがないので不確かな話。
拙者が小峰城で一番古い記憶は、小学校3
年だか4年生の遠足に来たものと記憶している。1991年木造による復元以前の話だ。当時バラ園があったと記憶している。その後家族と来たり、社会人となり友人のドライブがてら寄ってみたりと身近な観光地としてちょくちょく来ている。前回来た時は「小峰城歴史館」がまだ「白河集古苑」だった頃だろう。快晴の日に石垣の上で日本刀を振り回す映像を撮りたいものだ。
戦国時代白河でブイブイ云わせていたのは結城白河氏だが、戦国末には日立佐竹氏の蚕食にあい傘下に入っているらしい。会津の芦名氏もそう。そこに南下してきたのが伊達氏の政宗。北上しようとする佐竹と南下しようとする伊達が激突したのが、現本宮市と郡山市の境の「人取橋の合戦」でありフロントラインが「高倉城」である。
江戸期に入ると織田信長が五大老の一人丹羽長秀の息子丹羽長重が白河藩にやってくる。小峰城を実質作ったのは丹羽長重らしい。その後丹羽長重が死んで光重の代には丹羽家は更に北の二本松版藩へ移封され幕末へと続く。
白河藩自体は某家の領地というよりも、幕閣の給料地みたいなあつかいであったらしい。その中でも有名なのが前出(10月12日白河関跡に行ってみました。)の松平定信だ。白河関跡を定めてみたり、日本初の一般に開かれた公園をつくってみたり白河藩の行財政を立て直し、その腕を見込まれて老中になってはみたが“藩”と“国”では勝手が違ったらしく失脚してしまったように教科書には書かれているが、史実ではもっと複雑だ。幕末では西軍と東軍の激戦地となっているが、その話はまたいつか。
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